日本企業は頑張らせるため平等に評価しようとして成長を阻害

日本社会では頑張ること、頑張ってもらうことは無条件に良いことと考えられている節があります。

組織に対して、無条件に良いことはありません。作用という働きがあれば、何かしら反作用となる働きがあります。
組織として従業員に頑張ってもらう反作用としての働きの1つが、平等に評価して欲しいという欲求が高まることがあります。
もちろん、どんな仕事をしても平等に評価して欲しいという気持ちを持つのは当たり前です。しかし、頑張っている、生活を犠牲にして無理をしている、のであれば、より平等に評価して欲しいと思うのは当然のことです。

平等に評価するといっても限界があります。
これをいっちゃおしまいだと思いますが、現実です。
ある人事関係のコンサルタントから聞いた話ですが、評価基準中の1つの項目に対して、明確に差がつくと判断できるのは、15%の差がついた時だそうです。つまり、15%の差がつかなければ、同じように見えてしまうわけです。
もちろん、評価基準中の項目は数多くあるわけですから、それぞれを評価すれば、差がつきます。しかし、15%の差は従業員全員が一生懸命頑張るように促されているのであれば、簡単に付く差ではありません。

そのためもあってか、日本企業は長い間、年功序列でした。
大企業では中間管理職になるまではあまり差を付けずに昇進させてしました。若い期間に身を粉にして働かせることが企業の成長の原動力でした。昇進までに付いた少しの差は同期よりも先に昇進させて競争を優位にすることで酬いていました。

1990年代後半から大企業より成果主義人事制度が導入されました。その際、平等であることを重視させるが故に、その評価基準が売上高など明確な数字になってしまいました。

この「15%の差で始めて差が付くと判断できる」ことが全ての事態で応用できるとします。
それならば、全員を頑張らせるよりも、成長を促し、成長する人をより成長させることで評価し易くなるのではないかと考えます。
本当の意味の平等は、むしろこちらではないでしょうか。

頑張らせることと平等を両立しようとするから、年功序列になるのです。
頑張らせることはほどほどにして、成長を促し、その成長度合いを評価するのであれば、全員を頑張らせるよりも容易に評価し易くなり、評価に平等性が生まれます。その平等な評価を得るために成長しようとするのではないでしょうか。

もう一つ考えなくてはならないのは、成長度合いと結果が必ずしもイコールで結びつかないことです。
「成長度合いを重視して見るというけれども、結果が結びつかなかったら意味がない。それでは企業に取り入れることは難しい。」と言われたことがあります。

しかし、結果だけを求めすぎると、従業員はすぐに結果を出ることしかしなくなり、業績がジリ貧になります。日本の成果主義を導入した企業が元気のない理由の1つは、これです。
結果だけを求めすぎると、その期に結果が出る内容の中でしか考えなくなります。挑戦する内容は必ずしもその期に結果が出るものばかりではありません。次の期には結果が出るものもあるかも知れません。それを見逃すことになるのです。それは企業が成長できる案件を見逃すことになるのです。

成長度合いと結果が必ずしもイコールで結びつきませんが、それを取り入れるには、そのことばかりで判断するのではなく、企業の成長をどのように捉えるのかで変わってきます。
前途洋々の企業は結果だけ求めても運営できる余力があります。そうではない多数の企業では、結果ばかり求めてジリ貧になっていないかを点検する必要があると考えます。

全員を頑張らせることで企業が成長できる条件は、
①日本経済が高成長であること、
②モノ不足で売り手市場であること
③外国や同業他社から技術や取り組みを導入したり、改善・改良を図ったりすることで、企業外部からの成長を取り込むことて、頑張りが企業の競争力強化に直接的につながったこと、
です。
上記の高度経済成長期のような条件ならば、従業員全員を頑張らせることは直接企業の成長につながりました。
今は
①日本経済が低成長であること
②モノあまりで買い手市場であること
③外国や同業他社から技術や取り組みを導入したり、改善・改良を図ったりする対象が少なくなったこと
などの状態に変化しました。

今の時代は、従業員全員を頑張らせることを考え直した方が良いかもしれません。
それに合わせて、平等の意味も考え直した方が良いかもしれません。

従業員全員を頑張らせた上で、内部の人事評価を平等にすることばかりに気を取られ過ぎると、企業の成長、人の成長を阻害する要因になってしまいます。

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