日本の生きる道は人の育成しかないのに非正規労働者が増加

日本の生きる道は人の育成しかないはずです。
それなのに非正規労働者が増加しています。
しかも、これから日本は労働力人口が減少しますが、高齢者は増加します。
将来の年金、健康保険の支払いに不安があります。
果たして、これで日本は国として保っていけるのでしょうか。
仮に制度の枠組みは非正規労働者のままでも、もっと彼らを付加価値向上に貢献してもらえるようにする必要があるのではないでしょうか。

原則論を言ってみます。
日本の生きる道は何でしょか。
それは人を育成することしかないはずです。

日本は島国です。
資源がほとんどありません。
資源が無く、国土も狭い国が生き残るのは、人が生み出す価値しかない、はずです。

私は小学校時代に「日本は加工貿易で生き残るしかない」と教えられました。
資源が無く、国土も狭いからだ、と。
今は相手国に雇用を生み出さなければならなくなり、加工貿易だけでの生き残りができない時代になりました。

資源が無く、国土の狭い国が「身分制」を敷き、正社員と非正規雇用の2つを作りました。
それで人を育成できるでしょうか。

かの昔、福澤 諭吉は「学問のすすめ」の中で「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」と書きました。
今の日本では「正規社員の下に非正規雇用を造った」と言ってもいいでしょう。

非正規雇用の人々にチャンスがありません。
実力を示して、認められて、収入を上げるチャンスがありません。
これを身分制と言わずして、何だというのでしょうか。
身分制が固定的であるとすれば、正に身分制でしょう。

身分制のあるところ、腐敗しかありません。
なぜなら、立場が流動することがないからです。
そこには緊張感など無くても運営されます。
それでは活力など出るわけがありません。
「油断したら、あいつに抜かれるかも知れない」、「俺は今指導する立場だが、立場が逆転するのは嫌だ。頑張らねば。」と思うからこそ、指導する立場の人間も努力するのです。
もちろん、正規社員内部の競争はあるが、絶対的に競争相手が少なくなっています。

かの昔、高度経済成長期の日本はどうだったのでしょうか。
もちろん、正規社員、非正規雇用などという身分制は存在しません。
年功序列で昇進していたのであれば固定的ではないか、という人もいるかも知れません。
だが、一定年限を越えれば、大きく差が付きます。
それは同じ組織で見られていた評判が大きく関係してくる、と考えれば、若い頃からの緊張感を持って仕事をせざるを得ない環境ではなかったでしょうか。

「人」の能力の水準でしか生き残ることができないはずの日本で、現在の非正規雇用の人々は育成しなくても充分戦っていけると判断してのことなのでしょうか。
そうではないでしょう。

もちろん、「人件費の水準が外国とはあまりにも差がある」、「円は高くてとても外国に価格で対抗できない」という現場の意見は承知しています。
経済のグローバル化によって、競争相手は国内だけではなくなりました。
外国の安い賃金で働く労働者を使う企業に対抗するには、別の競争軸で戦わねば勝てません。
ならば、価値を作り出すためのチャレンジをもっと多くしなくてはなりません。

そのチャレンジはなされているでしょうか。
チャレンジを支援する体制ができているでしょうか。
それが充分ではないように思えるが、どうでしょうか。

価格が製品及びサービスを購入してもらうためには重要な要素です。
しかし、価格だけが全てではありません。
日本が生き残るためには人を育てるしかないのであれば、それ以上の価値を生み出そうとするしかありません。

日本だけが深刻で長期のデフレ経済に苦しんでいる理由はそこにあると考えています。
日本の企業が、人を育てなければならないのに、それ以上の価値を生み出す能力がないことです。
そのために、価格競争力だけでも持たねばならないために非正規雇用という身分制を作って対処しようとしました。
それによって、一層価値を生み出す能力を減退させてしまった、という悪循環を生んでしまったのではないでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました