「なぜ組織硬直化が進行するのか(https://shinkashi.com/2016/10/15/soshikikochokuka-shinko/)」で「成功体験が組織行動原理を形成します」と書きました。
前回の「成功体験が組織行動原理を形成する(https://shinkashi.com/2016/10/15/seikotaiken-soshikikodogenri/)」で、その形成過程を説明しました。
今回は、成功体験の中でも「勝ち過ぎ」の怖さについて説明します。
組織にとって「勝ち過ぎ」は、幸運の衣を被った毒なのです。
野村克也氏がテレビで「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と良く言っておられます。
負けた場合は、その理由を考えることができます。
勝った相手と比較対象して劣ったところが明確になります。
だからこそ、不思議の負けはありません。
上の言葉は、不思議の負けはないのだから、その理由を考えろ、という戒めでもあります。
勝負の世界やビジネスの場合は、他の競争相手との比較が関わってきます。
自分が勝った要因が不明確でも、比較対象の失策で相対的に勝つことはあり得ます。
勝った場合は、その理由を考えるよりも、努力が報われたことの喜びが先に立ちます。
勝った理由を深く考えようにも、比較対象との対比で得る考えるための材料が負けた場合よりも明確になっていません。
勝った場合は、いくら仮説を精緻に作っていても、作った仮説が全ての理由を説明するものである保証はありません。
勝った時にこそ勝った理由を考えろ、というのは理想でしょう。
だが、それは現実的ではありません。
人間だもの。
だからこそ、勝った時には「不思議な勝ち」があることを頭の隅にでも置いておく必要があるでしょう。
「不思議な勝ち」こそ、幸運です。
この幸運を得ることを信じて、苦しくても頑張ろうとするのです。
不思議な勝ちの中に「勝ち過ぎ」があります。
「勝ち過ぎ」とは、本来勝てるはずもない状態なのに勝ってしまっていたことを意味します。
それは、当事者が勝とうとして自らが意識した要因以外の要因が大きかった場合が多いです。そして、本人はそのことに気がつきません。
その幸運に酔いすぎてしまうと「勝ち過ぎ」は毒に転換します。
勝ち過ぎは怖いです。
なぜ、怖いのでしょうか。
勝つことでその状態がおかしいと疑う人はほとんどいません。そのため、その内容でまた勝ちに行こうと考えるために、その内容が考えることの前提となってしまいます。
しかし、前提と考えることで問題が起こっても、異なる理由でうまくいっていないと考えてしまい、本質にたどりつきにくくなってしまいます。
特に組織全体が「勝ち過ぎ」に酔いしれると怖いです。
ある企業が勝ち過ぎたために、その問題点に近づくことができない状態であることを知りました。
ある企業(ここでは○○とする)について教えてくれた人がいました。
その人と飲んでいるときに、○○の強さの源泉は何だと思うのか、と聞かれました。私は、○○について書いてある本を読んだことがあったので、その内容を答えました。
「お前は本ばかり読むから駄目なんだ」としかられました。
「是非教えてて下さい。」と頭を下げました。
その内容は意外なものでした。
ある種の勝ち過ぎとも言えるものでした。
当時はその要因は活きていましたが、今はありません。
○○の業績は衰退傾向にあります。
私は自分なりに調べた結果、その人の指摘は正しいと認識しました。
その過程で企業内部のことが書かれている本への信頼度を無くしてしまいました。
書かれている内容は嘘ではないでしょう。しかし、成功要因の重要度のウェートが適切かどうかは疑問であると感じました。
それ以来、その種の本を読むときには、何か別の成功要因があるのではないかを常に疑うように心がけています。
もちろん、○○の関係者と話をしても、その内容が出ることはありません。彼らは勝ち過ぎていたなどとはみじんも感じていません。
今もその問題の本質からのアプローチをしようとせず、リストラばかりが話題になっています。
勝ち過ぎの何が怖いかと言えば、勝っていた当時の当たり前となっていたことが前提になっていたため、その内容を疑いもしないことです。
なぜなら、それを疑うことは勝ったことを疑うことになります。しかし、事実は勝っていました。事実を疑うこと自体がおかしいのではないか、となってしまうからです。
勝ち過ぎとは、本来勝てるはずもない状態なのに勝ってしまっていたことを意味します。
それは、当事者が勝とうとして自らが意識した要因以外の要因が大きかったことに気がつかないことです。
そして、うまく行かなくなったときに多くの検討をしても、その要因の検討をしないために、傷が大きくなってしまい、悪影響を残します。
だから、勝ち過ぎは怖いのです。
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